今月の絵:Lantara, Simon Mathurin Paysage au clair de lune(1750)

9/1 Fri

出社、といっても午後の比較的電車に人の少ない時間に移動しているため負担は少ない。同期らに会ったがなんだかひっきりなしに喋っており、うるさい。赤見かるびがうるさいなあって言った例のシーンがあったが、あんな感じでうるさいと感じる時にうるさいなあと言って周りを萎縮させることがままあった。いまはその場を離れることで対処している。バフティヤル・フドイナザーロフ『ルナ・パパ』大傑作だった。冒頭の馬爆走シーンからしてすべてが全力で動いており、兄のナスレディンが氷の中の魚を見ている時に「彼にとってはすべてが生きているのよ」というセリフがあったが、まさにそのような映画であった。全てが動いていると言えば、このあいだの『君たちはどう生きるか』を連想し、飛行機や動物の使い方にも共通点を見出せそうだったが、フドイナザーロフの映画は妊娠させられた主人公の女性とその兄(知的障害者)という立場の弱い者の描き方が残酷でありながら優しくて、何度か涙ぐんだ。劇的な場面しかなく全く飽きない映画だった。(AKBの野菜シスターズみたいな)収穫アンサンブル?で踊る場面、踏み外して崖から滑り落ちてゆく場面、男を探して父と兄が舞台に押しかけてどんちゃんやる場面、医者があっという間に死ぬ場面、列車に身投げしようとして結婚することになる場面、魔女の家で釜茹でされそうになるが助け出される場面、牛が降ってくる場面、そして飛ぶ屋根……

9/2 Sat

祖母の四十九日の納骨に行った。一番暑い時間帯だったのでじりじりしながらお経を聞く。今風の墓石がぎっしり区画に並んでいるようなところだったが、墓石のデザインとして〇〇家と大きい文字で彫るのではなく、「穏」「道」「静寂」「ありがとう」「愛と夢」などと書いてあるのもあり、相いれない感性……と思うが、幸いにも私の家族にはそういう感性はない。年号だと何年なのかわからなくなるというので西暦表記にしてあったし、朝日新聞をとっていたし、祖父母は割にリベラルな考えを持っていて、他の親戚らもなにか嫌な感じのことを言ったりする人もおらず、幸運なことだなあと思う。堀千晶『ドゥルーズ思考の生態学』の合評会を聞いた。わりと哲学寄りの話に終始したのがちょっと残念で、小説や政治の話をもっと聞きたかったのに…と思った。鈴木泉や江川隆男など堀さんより上の世代の哲学専門の人らの発言が、スピノザの名を使いながらシェリングを強く読み込むことに反発していて、私はシェリングを使う意図が、発生の問題を導入すること、ひいては政治論へと発展させていく意図があると思っているから、七章以降の話をもっと引き出してほしかったという気がする。というか、そのような哲学のマチズモ的やり方を解体するような意図があったはずなのだから届いてないのか?とやや悲しくもなった。存在論にセクシュアリティの問題を読み、ドゥルーズ&ガタリは「幾何学的精神を有するスピノザを、明白に女性的なものとして読んでいる」(344)らしいから、江川氏の批判はスピノザを男性的なものへと連れ戻すような身振りだったと言えるかもしれないが(とはいえ、スピノザのドゥルーズの読解のどこまでがあってるか、属性に規定され切らない力能の存在が書かれているかというのは要検討)。あらためて、七章あたりを読んでみたがやはり小説、美術作品への言及が楽しく、アルベルチーヌが語り手の前から完全に消え去ってしまうことを、男性の所有の破綻だというところなど(561)、いいねと大学の講義を思い出しながら思うのだった。

9/3 Sun

sと猫カフェに行った。狭い空間に15匹くらいの猫と人間らが詰め合わされており、ほこりのせいなのか猫アレルギーになったのかわからないが、くしゃみが出て目が痒くなった。猫アレルギーだったらとても悲しい。大きくふわふわのやまだ小さい細っこいのなどいた。韓国料理を食べたい!と数日前から思っていたのでsが行ったことのあるお店でサムギョプサルを食べる。とても美味しい。肉というよりキムチやらコチュジャンやらナムルやらが好き。量があり、かなり満腹になった。なんだかんだとまたふらふら歩き、サブカル大学生がやってそうなことビンゴをつくるなどして遊ぶ。毎日毎日しゃべっているがそういうくだらないことをしゃべっているため、意外と話題がつきないものである。帰りの電車で前の席に高校の同級生が座っていたが、隣の人と喋っていたこともあり気づいてもらえず、降りぎわに手をトントンして気がついてもらう。周りの人をよく見ているからか、街中で知り合いを見つけたとき、たいてい私だけ気がついていて、誰かに見つかることはない。

9/4 Mon

いま日記が流行ってるのは虚構の価値が相対的に下がっているから、という言説をネットで見て、それはそうだなと思う一方で、カフカとか小川洋子とか日記から小説を作っていった人もいるし、私は他人の日記を小説を読むように読んでいる気もするから、まあそんなに気を落とす?ようなことでもないなと思った。やっぱりツイートの短さと形式では書かれないことも多いし、人々がそれぞれブログなりを書いてくれるのは読むものが増えて嬉しい。一方で、公開日記で書き即公開するのと、長い時間手元で文章をこねこねすることに違いはあるので、読み手の問題というよりは書き手の問題で、でもまあ小説を書く人は書くし、書かない人は書かない…… 大学の演習でも文フリでもこんなに小説を書きたい人がいるのかよ、と思った。そこでいう「小説」のなかみが、虚構度の低いものや「当事者性」の高いものが読まれやすくなっているといえば、そうかもしれない。フラナガンの『グールド魚類画帖』を読み始めたものの、あまりノリきれずちょっと悲しい。

9/5 Tue

頭がずきずきする。夜ほとんど泣き通しだったため。コードギアスを最後までみた。脚本のよくできた作品で見てよかった。なんとなく本が読めない状態なので、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を手に取るとするすると読める。今読める本を探り当てられると嬉しい。それ繋がりで『ハドリアヌス帝の回想』もよめればよかったが、こちらは数頁で散ってしまった。

9/6 Wed

右目が悪いのに伴ってか、右の鼻だけが圧迫感があり、気持ち悪い。

9/7 Thu

オラフ・オラフソン『ヴァレンタインズ』を読む。こういうすぐに忘れそうだが読んでいる間は確かに良い類の海外作家の短編集は、たまに読むと小説は良いものだなと思う。アニメを多少見るようになり、長編小説はむしろアニメに代替可能で、短編小説の方が小説形式として意味があるような気がする。オラフ・オラフソンというのは不思議な名前だが、アイスランドでは姓を用いず、父の名+息子(娘)をつけるらしく、つまりオラフソンはオラフの息子である。じゃあせめて名前はオラフでなくてよかったのでは…と思うが。

9/8 Fri

雨で急に半袖だと肌寒い。糸井重里のことは嫌いだが、ほぼ日手帳使ってみたいという長年の憧れを捨てきれず、ほぼ日weeksを買った。お言葉は邪魔なので英語版を。ロバート・アルトマン『雨にぬれた鋪道』を見た。悲鳴と音楽で怖さを出している感じがした。内から外の青年を見ているときの窓、内に引き入れてからのバスルームのガラス、リビングにある歪んで映るガラスブロック、三面の鏡、逃げ出す窓など、見ることと欲望という映画のど真ん中のテーマだから、そうしたガラスや鏡の使い方が際立ってよかった。

9/9 Sat

sが私のためにラムレーズンチーズケーキを作ってくれて、それを食べさせるためにsの家まで車で送り迎えしてくれて、大変甘やかされている(この〇〇してくれて…がすっかり広末涼子構文となった)。ラムレーズンが大好物なので、たっぷり入っていてラムが強くて美味しかった。sの家の猫は、家族にも一部にしか懐いていないほど人見知りで、私を見るととても怯えた目をしていた。名前を呼ぶと、「なんで名前知ってるの?誰?」みたいな顔をする。かわいそうだけれどちょっとだけ触らせてもらって、あとは姿を見せなかった。