今月の絵:Chardin, Jean Baptiste Siméon Panier de pêches, avec noix, couteau et verre de vin.(1768)

7/14 Fri

仕事が比較的少なく、計4時間くらいで与えられたものを終えた。これは河野咲子さんの「走り書き日記」を読んで私もやりたい!と始められた。Notionに書く形式は丸パクリしている。いつも何かに触発されて中断していた日記を再開するが、またたぶん中断がある。図書館で『存在の耐えられない軽さ』を借りてきて、第三部まで読む。文はテンポのよい進みでわりと乾いた感じがするが、出てくる女が情念系のところがいい。クンデラが一昨日亡くなって、はじめて読んでみている。今下のゴミ箱ボタンにうっかり手が触れ、ここまでの文がぱっと消えて驚いた。おもにりゅうちぇるが自殺してしまったことと、ジブリの新作の話題で持ちきりのツイッターにまた疲れている。「お前が殺した」という言い方をする人を何人か見たが、(誹謗中傷はもちろんしてはいけないが)ではあなたはまったく死に寄与しなかったのか、なぜそう言い切れるのか、などと思ってしまう。ぺこちゃんたちが離婚するという発表をしたとき、すこし反感をもったのは、トランスであるかどうかなど関係なしに、あんなに仲の良さそうで完璧に見えるカップルにも、終わりが訪れることが私は悲しかったのではないか、と後付けで考えている。ジブリの方は一応近所の映画館の座席の埋まり具合を眺めるものの、見なかった。来週平日のどこかで見てみようか。自分はもう死んでいるのだと言表するという症状がでる、コタール症候群のことを知る。

走り書き日記、第2期(更新中)|河野咲子

7/15 Sat

テレザが技師との情事を始める前、丘で処刑志願者たちのもとに行き(トマーシュに丘に行けと言われ)、彼女も望みさえすれば処刑されるという場面がある。結局それは「あたしの意志じゃない」として見逃される。意志など関係なしに起こる恋と革命の小説のなかで、この場面は特別な印象を与えた。

sが家まで車で迎えにきてくれて、おうちに遊びに行った。猫はもともと部屋にいて最初ちょっと触らせてくれたけど、すぐどこかへ消えてしまった。とくに何をしたわけでもないのに時間が本当にあっという間に過ぎて帰りたくなかった。バーミヤンでお腹いっぱい食べた。初めて会った日に私たちは映画を見てすぐ解散したので、お腹の空いたsは一人でこのバーミヤンに来たらしい。そんなふうに最初の頃はお菓子しか食べてなさそうと言われたものだったが、好みの偏りはある(今日食べた酸辣湯麺は酸っぱいし麺類なのでかなり好き)もののわりとなんでも食べるという認識になったみたいだった。寂しい帰りたくないと言って、結局家までまた車で送ってくれた。家族の車が苦手で、もう4,5年くらいタクシーとバス以外の車に乗っていなかったけど、とくに酔わずおしゃべりしながら楽しく帰る。車に乗らないとみえない風景があって、外を眺めながら、昔見た、あるいは映画で見た車からの風景の記憶の話をした。

7/16 Sun

なんだか一日眠い。この日記の存在をツイッターでお知らせしたが、なぜかURLがantique bicycleだった。フランス語と英語のつづりが混ざっていて見た目にもよいし、古風な自転車と訳したときにも響きがよくて気に入った。

スタロバンスキー『透明と障害』の「誤解」の章を読む。ジャン=ジャック・ルソーはなんだかとても生きづらそうな人間である。かれは他者に理解されたいけど自分の望むような姿で理解されないことに苦しみ、書いて自らの望むように表現しながら身を隠す。その一方で、書いた言語によっても誤解が生じるため、相手の前にわっと縋るというような言語以前の身振りによって自己を表現しようとする。しかしそうした身振りのシーニュは、透明(誤解のない状態)が不可能であることを示すに過ぎない。また、「偶発的徴候」というプルーストを喚起させずにはいられないシーニュの類型があるが、植物などの自然物が示すシーニュは結局かれがその意味を判断するしかない。

常套的な人間の交流以上のものを求めたがために、かれは交流の不在に苦しむことをよぎなくされたのではないだろうか。かれに世界を告知するかわりに、そして他人の魂を明らかにするかわりに、かれ自身の不安を送り返し、かれ自身の過去に連れ戻すような徴候の網目にかれはとらわれてしまったのではないだろうか。こうしたことが、事実ルソーにとっては徴候の力だったのである。すなわち、徴候とは、かれを世界に近づけるかわりに、(ナルシスにとって鏡面がそうであったように)自我が魔術のように自己自身の反映の奴隷と化してしまう道具だったのである。(269)

スタロバンスキーの書き方は、ルソーの書いたものを忠実に解しながら読みとして創造的であり、とても面白いしこういうものを目指すべきなのだと、大学で言っていた教員がいた。Histoire du traitement de la mélancolie という著作も読みたい。

夜sとスペースを開いてしゃべった。スペースは誰が聞いてるかわかってしまうから、入りづらくてたぶんキャスより人が来なかったし、いつもの電話の感じで喋っただけだった。自分の声が好きではないのに、喋っているのを聞きたいというへんな欲望があるため、今度は録音する。

7/17 Mon

サマーエンジェルというすももがおいしい。母方の祖母が亡くなった。ずっと入院していて私は会っておらず、あまり実感はない。祖母とは食べ物の好みが近いので、このすもももたぶん好きなのではないかと思う。